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あらゆることのレベルが低い途上国でひどい目に会った人は、自国でその国の人に会った時に、その国で扱われたと同じように、その人を遇してよいのか?

 

保障されない人権、安い命、それらを先進国に来た時に自動的に与えられるのはなぜか?なぜ社会コストを払っている私達が、低いレベルの国から来た人に無償で、その権利を与えなければいけないのか?

 

そういった権利を無償で与えるのは、ノブリス・オブリージュなのか?植民地や侵略戦争を行った代償として与えているのか?人間は人間を助けるという、人に備わった根源的な本能なのか?または民主主義や人道主義を拡大していくのが、その国や人の役割で、enlightmentをして、愚民や土人を文明に導いてやるのが人道上の役割なのか?

 

なぜヨーロッパの国々はイスラム難民をテロリズムという脅威が

あるにも関わらず、受け入れるのか?それは本能からなのか?なぜそれを止めないのか?

 

日本はどの様にこの問題に対処していけばよいのか?

 

国境がなくなる、ビジネスの垣根がなくなる、人や物、情報が飛び交う世界は、本当に今後国境線がなくなるというのか?

 

主権という権利に守られた国家というorganizationは解体されていくのか?

 

喫緊の疑問はなぜ、先進国は後進国から難民を人を受け入れるのか?それは先進国の労働人口の減少や、働き手の確保と後進国のメリット、高給与や保障された文化的な生活とバランスしたgive and takeなのか?

 

全てがバランスしている、give and take であり、損を取らないように国も人も行動している。それが現在の世界を形作っている。

 

それは過去から積み上げられたてきた歴史には逆らえない。その延長線上にある現在でバランスしていて、みんなが最適な行動を取っている。そういうことなんだろう。

 

もしかしたら、ヨーロッパがテロのリスクを鑑みても難民を受け入れるのは、未だにEnlightmentの心を持ち続けているからかもしれない。

 

日本は今後、どう行動したらよいのか?

膨張し続ける中国と、東南アジア、朝鮮、台湾、ロシア極東、日本を取り巻く地図は確実に変わらない地図であり、そこから身の振り方を考えなくてはいけない。

 

 

沖縄の左翼について考えた

昨日ネットを見ていたら、沖縄高江のヘリパッド建設問題の取材で「ニュース女子」が槍玉に上げられていた。さっそく「ニュース女子」本体を見てみる。和気あいあいとした議論のなかで、特にひどい誹謗中傷や事実と異なることが報じられていた気配はない。

 

こういうことで問題になるのは放送法の問題がある。日本とアメリカの放送法の一番の違いは「政治的公平性」であり、日本の放送法では視聴者に公平で政治的な偏りのない報道を届けることが義務だという。対してアメリカは独自の局の持つ政治カラーやポリシー、宗教色で勝手に色をつけて、放送している。トランプに対して批判的だったCNN記者の質問を拒否するという事件も起きている。というか、アメリカはケーブルテレビ文化だから、もっと放送免許で全国放送を許可するという制度ではないことも影響してると思うけど。

 

 

それよりも問題なのは、最近左翼というものに対して自分の中でも、世の中の流れ的にも大きな転換点になのでは?と思う。特に私と同じ40代前半は同じ思いが強いのではないだろうか。

 

戦後の全共闘世代の親が多く、小学校からの教育は日教組の影響ではだしのゲン反戦教育が中心に行われてきた。君が代斉唱も国旗掲揚もなかったと思う。確かにあの時代、私たちは左翼的な思想がよいものだと考えていたし、自民党は脂ぎったおっさんと田舎の農民が支持するものだと思っていた。土井たか子もいたし、首相は愛人、献金問題でバタバタと辞めていくし、そういう時代だった。

 

しかし私たちはソ連崩壊、カンボジアの大虐殺、中国との政治的コンフリクト、北朝鮮問題を経験して、共産主義社会主義というものを全く信じていない。国際的にみてもマオイスト的なテログループは少ないし、純粋な共産主義が救ってくれると思っているものは皆無だろう。日本の共産主義は戦後から学生運動の時代を経てソフトになり、憲法9条になり、反原発、反米軍基地、弱者の味方になり、現在に至る。

 

子供時代に信じていた戦後サヨク的な心情、物の考え方が地政学的な視点や、国というもののありかたを知るに連れて少しずつ薄皮を剥ぐように剥がれていき、物事の本質というのが見えてきたのだろうか?それとも時代が変わったから考え方が変わったのだろうか?

例えば80年代、バブル前夜の頃日本の一般的な人は戦後左翼的な優しい思想で何をしようとしていたのか?冷戦構造が厳然としてあり、アジアはまだ遠く、アメリカはジャパンバッシングと不景気のなか。伸び続ける日本経済は、バブル前夜。

 

私の父親、母親が全共闘世代だからだろうか、その時代の人たちは自分たちの青春の思い出を引きずっていて、それが家庭や社会に反映されていた様な気がする。それは政治信条や国を良くするためというよりは、もっとライフスタイルの様なものだった気がする。そういう風にアクトする、そういう風に語る、そういう分野に興味を持つなど。

 

そう考えると政治、経済的に正しい選択とどういう信条を持つかはあまり関係ない気がする。自民党政権だって、常に国益にかなった選択を自動的に行なっていくとすれば、左翼が気に入ることだってするだろう。共産党だって国益にかなった政治であれば、極右と同じ行動をするだろう。

 

どうしても戦後サヨクの人たちは盲目で、何も世界が見えていなかったという考え方から離れられない。平和憲法擁護と日本が置かれている地理的な位置、歴史的経緯など考えると米軍基地反対、自衛隊反対という意味が見えてこない。平和憲法を擁護するためには、米軍のプレゼンスが必ず必要で、冷戦構造の中では日本はかなり前線に位置し、自衛隊だけでは心もとない。

 

GHQに与えられた憲法をありがたがるという捻れもある。戦後共産党は武力革命を目指し、GHQレッドパージと戦い、日本を共産化しようとしていたが、何故それを変更したのか?

 

今後の日本はどう進んでいくのか?対外的には韓国との関係、中国との関係、北朝鮮の今後、アメリカとの関係、アジア諸国との関係、難民受け入れ、少子化に伴う労働力の受け入れ。対内的には少子化、デフレ、労働力の減少など。

 

 

 

 

 

 

 

大麻解禁について考えた

昨今、欧米で大麻解禁の流れが起こっている。古くはアムステルダムのコーヒーショップから今アメリカ、コロラドでは大麻スタートアップ企業が増えているという。

 

結論から言うと、私は大麻解禁賛成。嗜好用途も含めてOK。

理由は、法律が成立した過程に対する疑問と、科学的な見地、そして人権が制限されているということ。

 

科学的な見地からいくと、とても簡単に説明できる。酒、アヘン、モルヒネなどに比較して身体的、精神的中毒性が比べものにならないくらい低い。幻覚や暴力性、怠惰になるなどの科学的データもない。また飛び石理論、ゲートウェイ理論といわれるヘビーなドラッグへの入り口になるという理屈も現在では否定されている。逆にいえば身体的、精神的に問題がないのなら、それを解禁することで反社会勢力との接点も断てるし、課税することだって可能だ。この2つの考えは欧米が解禁に踏み切った大きな理由。

 

1948年の大麻取締法制定から国(厚生省)が行っているこのでっち上げは、法律があるから禁止しなくてはいけない、という姿勢だ。大麻取締法GHQの押し付けによって始まったといわれている。理由は日本の神事や文化と深くつながる大麻を禁止しようとしたといわれている。

 

一方、覚せい剤取締法は1951年制定で、それ以前は薬局で買えた。覚せい剤は確実に戦地での使用経験と、戦後の混乱や重労働、食糧不足、社会の停滞感などから来た流行だったのだろう。戦争をしたかったり、労働力を補おう(国民を単純労働に使いたい)という国は、なぜか覚醒剤が出回るようになっていたのが戦後から20世紀末までの世界情勢のようだ。薬理学的にいえば覚せい剤の方が危険なのは明白だ。しかし政治的な理由はそこを無視してきたようだ。

 

世界に目を向けてみるととても面白い現象がみえる。大麻に関してはおおらかで、法律もなかったような新興国が1980〜2000年代に次々と重罰化していき、逆に先進国(OECD各国)は解禁の流れに進んでいる。例としてインドは1980年代に罰則規定が作られたが、これはアメリカや先進国のプレッシャーがあったようだ。また個人的には野蛮で原始的な習慣だという恥のようなものが社会にあったのではないか?と思う。しかしインドは宗教行事で使うバングは政府公認ショップで売るという、とてもインド的な逃げ道を作っている。

 

人権が制限されている、という部分に関していえば本来憲法では健全に生きる権利や、知る権利(正しい知識)というものが保証されていて、国は国民にこれを提供しなくてはいけない立場なはずだ。しかし科学的根拠のないデータを提供し、モルヒネなどもっと依存性が高いものは使用を許可しているなどの実態がある。

 

本来人間は自由な存在であり、そこに制限を加えるのが法律で、社会という大きな人の集団が求める理想像が憲法なら、本来大麻を吸うことも自由であり、それに制限をかけるということは科学的にこの物質は憲法で掲げる理想像に反する、平和な国民生活に害をなす物質だという確かな証拠がなければいけない。

 

ここまで書いてきて2つのことに思いあたった。1つはとても重要で未来志向のことで、もう一つはとても皮肉な意見だ。

 

ひとつめは日本、それ以外の国も含め、民主主義は古い部分を未だに内包している。それは天皇制だったり、宗教、文化だったりする。それは民主主義にその国の独自カラーをつけるような役割も持っている。悪い要素とすれば、それが民主主義や法治主義本来が持つ機能を鈍らせ、システム自体が矛盾点を内包している状態にしている。これを取り除くことが21世紀の未来への一歩ではないだろうか。

 

そして2つめは大麻取締法も現日本国憲法も戦後GHQが大きな力で作ったもの、いまアメリカは大麻解禁を進めている。言語の世界では、元植民地や遠く隔たった国で使われる言葉には、古い言葉や文法が残るそうだ。例えばブラジルのポルトガル語、アメリカの英語。なんだかこの大麻取締法も、そういった類の置き土産みたいな気がする。

 

戦後は続くよ、どこまでも。と言っていられない状況の日本。古い言葉が残るのは文化になるが、憲法や法律が何も考えられないまま保存されるのは、良い状況だとはとても言えない。

 

大麻に関して考えると、いろいろな政治的、社会的な矛盾や背景が見えてきてとても楽しい。一昔前大麻は21世紀の植物だ!と言われていたけど、いろんな意味で本当にそうだな〜と思いました。

政府のシステム全てを私企業が提供するとしたら

全ての政府の運営に関わる業務が、私企業によって提供されるとしたら?

 

・政治もサービスだ

・公務員は政治サービスに国民がアクセスするため、システム運営のためのエージェントだ。対価は金銭。

ーなぜ政府がシステムを運営する必要があるのか?

公平性、信頼性、権威性

・代議員もエージェントであり、資本主義で対価として使われる金銭にかわって、票(信頼)という対価をもらっている

 

投票して民意を政治に反映させるというのは、どういう意味があるのか?

 

代議員は制度を作り、社会を形づくる。それは民意を反映している。

憲法に基づいて、議論をし、新しい法制度を作る代議員以外は、政府が運営する必要はないのでは?

 

私企業が公務員が行っている業務まで、行うと公平性は担保されるのか?

基本的には法制度は議員が制定するものであり、公平性は担保される?

高度な専門性を持つ公務員が実際は新法の整備をおこなっていて、それに私企業が

介入すると、それは公平性の担保が出来ない。業界を監視、管理する省庁が私企業になるのは?

 

問題は公務員というシステムがパッケージ単位で帰られないということ、何らかの手段(入札、投票など)で交換可能な制度にすれば、自動的に競争原理が働き、私企業のように能率や効率を求める集団になるのでは?

 

例:省庁単位で入札を行い、安い費用で効率的に業務を遂行できる企業(行政サービスプロバイダー)を決める。

他にいい方法は?

国民投票?オンラインでの

 

政府、国家権力は自由経済市場の最後の歯止め?

安定し成熟した自由経済市場になるにつれ、政府の権力は抑制、縮小されるべき。

安定していない自由経済市場では、独裁や強権、軍事政権などが多い、その後民主政治へと移行、そして小さな政府へと移行していくのがバランスの取れた進化なのか?

 

 

 

 

 

 

インド 高額紙幣廃止と電子決済

インドで11月に行われた高額紙幣廃止の突然の廃止。

(500rpsと1000rpsが廃止され、新たに500rpsと2000rpsが発行された。)

社会に相当の衝撃を与え、最初の一週間はATM前に長蛇の列、現在も銀行支店以外のATMは刷不足で閉鎖、銀行支店も列が出来ている。インドの2016年の成長率は久々に6%台に落ち込むことが予測されている。

 

私はこの施策はモディ首相の英断であり、中長期的にはインド経済の発展に大きく寄与するものだと思う。腐敗や裏金、不正蓄財がはびこり、'00年代にはGDPの50%がブラックマネーで動き、数%の人しか納税していないという現実を見るとこういった大きな施策をしない限りはインドの経済の透明性は確保できないと考えるのが正解だと思う。

 

モディ首相はこの施策のあと現金をなるべく使わない、キャッシュレス化社会を叫んでいる。最初に聞いたときには、全く実現性のない話だと思った。相当の大きな会社でも現金決済で、経済の78%が現金決済という国での実現可能性は低いと考えた。

高額紙幣を無効にしたインドが目指すのは「キャッシュレス社会」 - GIGAZINE

http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM26H44_W6A221C1FFB000/

しかし、いくつかの最近のテクノロジーや施策を見ていくとしっかりと、この高額紙幣廃止とリンクするものが見つかった。

 

その1つは「Aadhar」と呼ばれるIDシステムだ。虹彩指紋認証とリンクしたこのシステムは10億人以上が登録しており、政府機関だけではなく、私企業も利用が可能で、携帯電話や納税、銀行口座とリンクしている。私企業にこのシステムが開放されていることがとても大きな要素で、今後このシステムをベースにした様々なサービスの導入が期待されている。

ネットインフラ、インドを拓く :日本経済新聞

https://eaadhaar.uidai.gov.in

 

もう一つキャッシュレス社会を後押しするものはpaytmに代表されるモバイル決済だ。

このシステムは少額の決済、決済端末を持たない店舗でも決済が可能。写真の様な路上の店でも登録さえしておけば、モバイルからの支払いが可能になる。これはインド社会にとって大きなことで、路上店舗や小規模小売店で支払いがオンライン化できる。店主が銀行口座と携帯電話を持っていれば、少なくない手数料がかかり、電源、インターネット回線が必要なカードの決済端末は必要ない。

 

この二つで保険や銀行口座開設、納税など個人認証が必要なジャンル、小規模な小売(路上店やパパママショップ)のジャンルはカバーできる、大型店舗やスーパーマーケットはカード決済システムをもともと持っているので問題はない。

 

どこに問題があるのかといえば、小規模のBtoBなどだろうか。小売ではないので、Paytmなども利用できず、また銀行間決済もしたことがない、現金問屋の様な業態がインドに溢れている。チェックでの決済は可能だが、不渡りも多く、またいくら不渡りを出しても問題がないので、日本の小切手の信用度などない。

 

オンライン、電子化は新興国の方が行き渡りやすいと言われているが、インドはその典型だろう。しかし政府のオンラインシステムも最後の一歩で書類提出が必要であったり、オンラインと紙ベースで進捗の速さが変わったり、隙間を突いて裏金をせびろうとする役人がいたり、また州レベルでは全く電子化していないなど今後の課題は沢山ある。

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しかし5〜10年後のインドを考えてみると、キャッシュレス化が進み納税が正しく行われ、transprarency indexが上がり、社会の不公平感が減少し、外資の導入も進んでいることを期待したい。

 

大型サイクロン直撃@チェンナイ

12月12日(月)チェンナイに大型のサイクロンが直撃。

11月終わりのお札騒動、先日のアンマ(ジャヤラリータ)死去に続き、22年に一度といわれるサイクロン直撃。相変わらず災害に弱いチェンナイだが、翌日13日には見事に晴れわたり、町のあらゆるところで復旧作業が行われている。

 

今回のサイクロンは強風を伴ったもので、被害は水よりも風によるものが大きかったようだ。倒木が道路を封鎖し、看板があらゆるところで倒れ、倒木による電線の断線、グラスビルの窓が割れているなどが起こった。この強風は関東近郊では体験できないもので、インドのextreme weatherにまた驚かされた。

 

災害への弱さは毎年の様に降る雨の対策が全くできていない部分に見られる、OMRやECRといった基幹道路にも排水設備がない、U字溝などが全くない、下水があるのかないのかわからない、川の土手などが整備されていないので川がすぐに氾濫する、至る所にある沼(チェンナイはもともと沼地が多い)から水が溢れ出し、隣地へ水が流れ出すなど。

 

電気、インターネットの配線が倒木や強風で切断され。スラムに住む人々は家から出て道路で衣類や寝具を乾かし、水に浸かった大学は休校になり学生たちは地元に帰っていく準備をしている。

 

インドの気候には驚かされることが多い、3〜6月のチェンナイの暑さもそうだが、11月〜12月にかけて訪れる雨季のサイクロンの激しさも超絶級だ。昨年の大洪水も驚きだが、今年のサイクロンの風の激しさは海岸沿いでは、車を浮かせて海に放り投げ、あらゆるところで樹木を倒した。

 

毎年の様に起こる災害と 激しい気候はどんな国民性を育てるのだろうか?

諦めの早い性格、どんなに損害が大きくても動じない性格、生活のために必要最低限の復旧を素早く行う行動力など、同じく天災が多い我が国と比較しても良い部分があるのではないか?

 

タミルナドゥ、チェンナイ人は、災害時総じて落ち着いて行動するし、公共の助け合い精神もある、比較的楽観的にものごとを捉えて、騒乱や暴動などは起きる気配がない。

 

日本では災害に対する対策があらゆる面で整っている様に思う。

第一に備え、川の氾濫対策、下水や側溝の整備、危険区域、避難方法の周知など。インドのインフラ、ソフトはこういった面についても整っていないと言える。

 

人々がまともに生活するためには隣近所での助け合いや、学校、友人などの助けが必要で、そういった協調関係や繋がりがなくしては行きていけない。

 

翻って我が国も以前は隣近所の助け合いが普通にあり、相互強調が自然に行われていた。それが希薄になっているのか?新たな関係性が築かれているのか?SNSの発達や、災害インフラの発展は人々に情報と安心感を与え、プライバシーの重視や、衛生的な環境を災害時でも提供できる。

 

インドにおいてもそれが隣近所、特定集団レベルで行われ、提供されていることは理解できる。

 

そういった意味で考えると日本は社会投資や公共への投資が、公共というものへの信頼をベースに行われ、国、県、市町村といった行政単位レベルで行われてきたことがわかる。比較してインドは公共投資への信頼度が低く、日本の様に国や市町村が最終的に責任を取ってくれるというような考え方は少ない。

 

基本的に自分のことは自分で行う、 at your own riskの考え方が浸透しているように思える。政治家の汚職や、公共サービスの質の低さを見るとそう考えるのも仕方がないように思える。しかし州知事への敬意や崇拝は、理解の限度を超えている部分があり、死去に伴う自殺者や暴動につながる場合もあり、

公共サービスの提供者というよりも、神様の様に考えている部分が人々の中に強い様に思う。

 

インドの民主主義は崇拝の念と、それに対する報酬(施し)という関係性で成り立っているのではないか?とくにTN州に関しては。

インドのメディアもアンマ葬儀を大々的に報道し、ヒロインの死を悼む報道を行っていた。アンマの人生を振り返り、行ってきた偉業を讃える報道だ。参列者も喪主の足元にひれ伏し、最大限の敬意を払って弔問を行っていた。

 

こういった有権者とそれを映し出すメディアは、まるで王様か独裁政治家が死去したときのようだ。世界最大の民主主義というが、その民主主義のカタチは、一般的な日本人が思い描いているものとは違い、「神様と信者」、「女王と民衆」という形に近い気がする。

 

こういった関係性が引き起こすものは、第一にメディアの政治への監視が十全に行われない、第二に有権者の政治家への盲信は、政治家としての能力ではなく、その人の知名度や恩義を与えたかによって判断されてしまう(その与えた恩義が行政的に不公平ものだとしても)。

 

こういった民主主義の形の違いは、その国民性に由来する部分がとても大きい気がする。それは民主主義教育というよりも、国民にもっと深く根ざした文化や歴史的事実が作り出した国民性が大きく影響している。

 

例えばインドではスルタンやマハラジャといった絶対君主がインド独立まで存在しており、英国のインド提督は神として絢爛豪華な宮殿に住み、ルイ14世よりも多くの召使を抱えていた。そういった歴史が彼らの心根に宿っており、政治家を神や支配者として捉えているのではないだろうか。

法律の条文よりも、そこにいる行政官の気分やさじ加減で決まる役所の仕事。

モディが首相に選ばれたのも、こういった王政や君主の様な人間を選びたくないという現れなのかもしれない。

 

我が国ではどうだろう、日本の歴史的事実は徳川の世から明治維新を得て、富国強兵の時代、軍国主義の時代を経て、敗戦、民主化(アメリカ型)へ時は移ってきた。この中で特徴的なものは明治維新だと思う。民主主義とはいかないまでも、参政権言論の自由が一定程度確保された維新は、薩摩、長州、土佐藩郷士や身分の高くない侍が中心となって行われたものだ。徳川という絶対的な権力から、明治政府という全く新しい権力へ移行したのだ。民衆はその時時の政府の方針に従いながら、民主主義や共産主義、自由や権利という新しい概念を吸収していった。

 

確かにインドでも英国から新生インドの国民会議派へと権力は引き渡された。彼らは多分そんなに搾取型ではなく、ガンジーの理想のようにインド民衆のためによりよい政治を行ってきたのだろう。それに社会主義に近いかたちの国家は、資本主義よりも民衆を平等に扱いそうだ。しかし、そうはならなかった。インドの失敗は社会主義というソビエト崩壊とともに崩れ去ったシステムを採用していたからなのだろうか?Hindu pace といわれた低成長、識字率の低さ、圧倒的な貧困層の多さは経済システムの失敗によるものが大きい気がする。また我が国で行われてきた合理性、西洋化の追求(富国強兵のための)はインドでは行われず、英国統治への反発から西洋的なもの、西洋的合理性が追求されなかったのではないだろうか?

 

他の国の人の目から見ると日本人にもそういった悪癖のようなものが残っているのだろうか?例えばお上(政府)を信じすぎる、徳川時代からの中央集権、自分たちで血を流して勝ち取っていない民主主義(敗戦後に米国から与えられた)、閉鎖的で同じ人種であることを非常に大事だと思う文化(
hi context な文化)。

 

インドは大国であり、日本は島国だ。多くの国境を他国と共有し、多様な人種がパキスタン国境からミャンマー国境まで拡がり、宗教的にもヒンドゥー、モスリム、クリスチャン、シーク、仏教徒、ジャイナが入り交じるインドは千年単位の歴史で見ればるつぼであり、日本は海岸線というはっきりした国境と文化圏の境界を持っていた。

 

国民性というのもこういった地政学的な条件に導き出された歴史や民族間の戦い、気象条件などが長期間にわたり蓄積され、そういった条件への最適値を権力者や人々がはじき出してきた歴史なのだろう。人間は地理的条件や気象条件には勝てない、それに従うしかない。しかしそれを克服し、新しいかたちを導くのも人間だ。それには自然的にそこに存在するもの、あるものに対する挑戦と、それを克服する方法が必要だ。

 

浸透圧の高い日本と、薄いインド。他者を排除する日本と受け入れるインド。

タミルナードゥCM(州知事)ジャヤラリータの死去で違和感を感じたこと

timesofindia.indiatimes.com

昨日の夜遅く、タミルナードゥ州知事のジャヤラリータ氏が死去しました。

ご冥福をお祈りします。タミルナードゥではとても影響力が強く、1991年から州政府トップの座に君臨し、農村部などの貧しい人々を中心に支持を得て来た政治家です。もともとは人気女優であり、その後AIADMKという政党から出馬し、現在まで現役で政治家を続けてきました。

Jayalalithaa - Wikipedia

 

ミルナードゥ(TN)州はジャヤ氏死去の影響で、教育機関は3日、政府は7日間、一般企業は1日休日になりました。銀行が休日になると一般企業も休みます。お札騒動が明け切らない状態でのジャヤ氏死去は州経済にダブルパンチを食らわす状態で、あらゆる経済活動が停止、スローダウンしている感じがします。

 

とても違和感を感じたのは、現役とはいえ政治家が一人亡くなっただけで起こったことが、

 

後追い自殺をする人が出る

●政府機関が喪に服す(休む)

●暴動の危険があるので軍隊が町に展開した

●多くの信奉者がジャヤ氏自宅前や病院前に集まっている

 

他にも死去のニュースを夜中過ぎに流すことで暴動を抑えたとか、様々な憶測が飛び交っています。彼女の愛人であり、師匠格の、同じく元俳優で政治家のM.G. Ramachandranが死去した際は暴動が起こり、店舗からの強奪や車両を焼き討ちにしたり、相当ひどいことが起こったようですから仕方のないことなのかもしれませんが。

 

しかし日本人として一番感じたことは、たかが政治家一人が死んだだけで何故ここまで熱くなれるのか?アンマ(ジャヤ氏の愛称、お母さんの意味)があなた個人に特別に何かしてくれたのか?

 

これは言い換えれば、政治家一人が、有権者(ファン)に対してここまで熱くさせられるだけの権限を持っている、政治家一人が税金を使ってファンを熱狂させる様々なことが出来るという体制について疑問を持ったわけです。そして危ないとも思いました。

 

比較として日本の政治家または政治体制は知事、もしくは首相一人がそこまで独裁的に出来るということはありません。橋下知事の都構想にしても、あそこまで人気のある人でも大きな改革には反対がでるものですし、安倍総理がいくら強いといっても安倍総理が亡くなったら日本の役所は一日喪に服すでしょうか?

 

ジャヤ氏は今年9月頃から病院に入っていたのですが、氏がテープカットに出られないという理由だけで、新しくできたメトロ空港駅が未だ開通していません。また反対政党の前州知事が建てた巨大な県庁舎は、氏が使いたくないという理由で、機能しているのか分からない病院として使われています。これだけでも経済の損失は計り知れないと思います。

 

貧しい人へのケアプランはもちろん税金で行いますが、自身の顔写真を貼りアンマフードやアンマからの電化製品として配られていきます。貧しい人々はこれが税金から捻出されていると理解しているのでしょうか?

 

インドは世界一大きな民主主義国家といわれますが、今回の件で日本の民主主義とは大きく違うと感じました。政治家を神様の様に慕う有権者、死去に伴って止まる州の経済、民衆の政治家に対する距離感や感じ方が日本と全く違うのだな、という感じです。

 

しかし政権交代は起こります。AIADMKとDMKという州の二大政党が入れ替わり、政権を取ってきました。DMKはM・カルナーニディ氏を中心とする政党で、現在は氏の息子のM・Kスターリン氏も政治家として活動している。

M・カルナーニディ - Wikipedia

 

インドの政治の歴史は闇が深そうで、また日本の政治状況と全く違うのでとても理解するのが大変そうです、日本人がインドに来たときに何故人々が政治家一人に対してここまで熱狂するのか?後追い自殺までするのか?なぜ州知事が巨大な権限を持っているのか?は大きな違和感として残ります。

 

最近ポピュリズムという言葉をよく耳にしますが、タミルナードゥの政治を見れば、ポピュリズム以外何もないという感じです。それはタミルナードゥが農村部の巨大な票田を抱える州であって、未だに字が読めない人がいて、政治の公平性や透明性、権力の監視などは考えもつかず、雲上の人が電化製品や補助金、仕事を下賜してくれると考える人が大多数だからだと思います。

 

ミルナードゥの農村の暗い農家の片隅で自分たちの境遇が大都市チェンナイの雲上で決められていると考える人は、古代の王政国家に生きる農民とどれほど違うのでしょうか?彼らが今後税金の使いみちや、政治家が私腹を肥やすことに腹を立てて、もっと公平で透明な政治が世界にはあることに気づき、それをタミルナードゥで実現させようと思うにはあとどれ位時間がかかるのか?